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古代朝鮮の新羅、百済は日本人が作った!

D遺伝子
<古代朝鮮の新羅、百済は日本人が作った!>

1、「騎馬民族説」のデタラメ 

①「天皇家の起源は朝鮮半島だ」とする"騎馬民族説"はかなり怪しい説です。まず「騎馬民族」ですが、一般的にはユーラシア内陸部で馬を飼育し、衣食住ばかりでなく、対外的な活動の主体とした"遊牧民"をいい、

②中央アジアの「スキタイ人」に始まるとされます。この「騎馬民族」について、東アジアでは具体的には匈奴、高車、突厥や後のモンゴル(蒙古)などの種族を指します。これは、中国古代の「北狄」を意識したものです。

③この北狄の東南の森林地帯にいた「東夷」と称した「ツングース系」については、一部に騎馬民族的な者も含まれていましたが、"半猟半農"の色彩が強かった事を考えると厳密な「騎馬民族」とは異なるようです。

④江上波夫(東京大学)は、「騎馬民族が日本にやってきて王朝を開いた」としています。が、まず新羅ですが、建国にはツングース系の「非騎馬民族」が関係したとみられ、組織的な騎馬隊が来たという書伝はなく、ましてやそれより南方の海を馬で渡って、日本に騎馬隊が来るとは考えられません。

⑤元来、朝鮮半島では、紀元前5千年以前に人がいた遺跡がなく、縄文後期に日本人が入植した後、南下してきたツングース系、更には中国大陸から来た呉人(韓人)・越人(倭人)と共に、主に半島南部に馬韓、辰韓、弁韓を作って緩やかな農耕村社会を形成していました。これが「任那(伽耶・伽羅)」です

⑥が、その後、既に満州地域に展開していたスキタイ系扶余族がさみだれ式に南下してきて、半島北部に高句麗(貊…はく)、西南部に百済(濊…わい)を建てました。なお、秦朝(中国)滅亡後、その末裔の「秦氏」が合流した辰韓は"秦韓"ともいわれています。

2、朝鮮半島の正史「三国史記」

⑦ところで、半島の正史「三国史記・新羅本紀」によれば、新羅王家には朴氏・昔氏・金氏の三王統があり、この間で王朝交代が起き、朴氏新羅(初代赫居世居西干~)・昔氏新羅(第4代脱解尼師今~)・金氏新羅(第17代奈勿尼師今~)と呼び、それぞれに始祖説話があります。

⑧まず、朴氏初代の「朴赫居世」では、辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があり、卵を割ると中から幼児が出てきたので育て、10歳を越える頃には人柄が優れていたことから、六村の人たちは彼を王位につけたと。

⑨また、卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。一方、建国時に海を渡って来た倭人がいて、腰に瓠をぶら下げていたため瓠公と称し、大輔という役職名の重臣になったともあることから、この瓠公と朴赫居世を同一人物と考えられます。

⑩朴赫居世は、紀元前57年に13歳で王位(辰韓の語で王者を表す居西干と称された)に就き、国号を徐那伐としました。赫居世の次男「アメノヒボコ」は本州(日本?)に居住して暮らしたとあります。

⑪次に、昔氏初代の「昔脱解」では、倭国東北一千里のところにある多婆那国(現在の兵庫北部等の本州日本海側)の王妃が妊娠ののち、7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流されたが、辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。

⑫箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とし、長じて第2代南解次次雄の娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた、と。  
⑬最後に、金氏始祖の「金閼智」では、脱解尼師今の治世時に、首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞き、夜明けになって瓠公に調べたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。

⑭そこで、小箱を持ち帰って開くと中から小さな男の子が現れ、容姿が優れていたので脱解尼師今は喜んでこれを育てた。長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした、と。

⑮以上、新羅建国の特徴をみると、複数の王統を持ち、建国初期に倭人との関わりを伝えることなど、高句麗・百済の始祖説話体系とは少し異なっている事が分かります。

3、日本の文献にある新羅の記録

⑯日本側の文献でも、新羅建国にまつわる話を調べてみると、「稲飯命」と「天之日矛(アメノヒボコ)」の記録があり、「新撰姓氏録」では、新羅の祖は鵜草葺不合天皇の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとしています。

⑰一方、「天之日矛」は、記紀や風土記によると、新羅の王子だったが、王位を弟の「知古」に譲って日本に帰化し、最終的に但馬(兵庫県豊岡周辺)に土着、三宅連氏の祖先となったとあります。

⑱が、「天之日矛」という名は、新羅風の名前でなく純然たる"和風"の名前なので、そのルーツを調べてみると、日本側の伝承によれば、日本から渡った稲飯命が開いた新羅王朝家の子孫ということです。

⑲だとすると、新羅王「昔脱解」は船で渡った倭人と見られ、その出生地は日本の但馬、丹波、肥後のいずれかとされますが、但馬(兵庫県北部)と推定する説が多く、「天之日矛」が祭られる豊岡と一致し、豊岡から半島へ、そして半島から豊岡へ移動したと考えられます。

4、この他の注目事実 

⑳この他の注目すべき事実としては、中国の「宋書」では、四百五十一年に倭王済(允恭天皇)を、四百七十八年に倭王武(雄略天皇) を、「使持節都督倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓の軍事安東将軍として認める」とし、「梁書」「南史」でも日本の半島南部の支配を公式に認めています。

㉑また、高句麗第十九代・広開土王(好太王)の業績を称えた石碑「広開土王碑」には、新羅の奈勿王の子・未斯欣と、百済の阿莘王の子・腆支を、人質として日本に差し出したことが書かれており、「三国史記・新羅本紀、百済本紀」の記述とも一致しています。

㉒さらに、鎌倉時代に編纂された「八幡愚童訓」と、室町時代に足利義教が誉田八幡宮に奉納した「神功皇后縁起絵巻」によると、神功皇后が三韓征伐で高句麗、 新羅、百済を制圧したとき、「我ら日本国の犬となり日本を守護します」と誓ったと書かれており、この名残が「狛(高麗)犬…こまいぬ」です。

㉓一方、韓国の古墳から見つかった王冠には、日本にしかない原石でできた硬玉製勾玉が埋め込まれており、宋山里古墳群で発見された武寧王の棺材は、日本にしか自生しないコウヤマキで作られ、慶尚南道金海では日本製の銅矛、弥生時代後期に製作された日本製の銅鏡が発見されています。

なお、桓武天皇の生母・高野新笠が、人質として来日していた百済の「武寧王」の子孫だという記録があり(続日本紀)、これが元で誤解が生まれ、平成13年12月18日の今上天皇による「半島所縁発言」になりました。

 

が、武寧王は"天孫工作"で豆満江河口付近の羅津に渡った孝元天皇の皇子・彦太の後裔•オホドで、その後、皇位継承者不在となった日本に帰国、「継体天皇」を"兼任"したのが真相です。今上天皇が何ゆえこのような発言をされたのか、真のルーツを知る欧州王室でも戸惑いの声が上がったそうです。

 

また「記紀」には、「王仁(和邇吉師)」が百済から日本に来て、「千字文」や「論語」を伝えたと書かれています。が、朝鮮史には「王仁」の記録はなく、日本書紀には「応神天皇の命令を受け百済が献上した人物」と記されており、当時は半島になかった一文字の姓から中国人といわれています。

 

さらに、日本書紀には、欽明天皇の時代に百済の聖明王が使者を使わし、仏像や仏経典を献上したと記されています。が、実は聖徳太子の時代に小野妹子が隋からもたらしたのが真相で、それも四天王寺などに見られる毘沙門天(多聞天)を主神とする「マニ教」だったことが近年明らかになっています。

 

5、日本人と韓国人の遺伝子の違い

 

㉘最後に、日本人と韓国人の遺伝子研究の結果を見てみると、韓国人の遺伝子の中には、日本人固有のYAPハプロD1b (D-M64.1)系統(日本列島起源、日本では約32%存在)は2%しか確認されていません。

 

㉙が、韓国人の母系に限ってみると、琉球諸島周辺で発生し沖縄から九州へ入ってきたとされる縄文系(港川人)のハプロM7a (mtDNA)3%弱確認されています。が、これは紀元前5千年以前は無人の地だった朝鮮半島に、縄文時代後期、日本から開拓に渡った縄文人の影響と考えられています。

 

㉚ところが、韓国人の男系に日本人との共通性が確認されないのは、その後の北方民族や漢民族の侵入、侵略の定めなのか、侵略者によって男子は根絶やしにされたが、女子は生かされたためと考えられています。

 

以上の結果、カトリック医学大学キム・ドンウック教授、慶応大学岡本真一郎教授、徳島大学の佐藤陽一準教授らがHLAヒト白血球型抗原)を分析した結果、日本人と韓国人のDNAには遺伝子的な共通性が低いという結論が出ています。

 

㉜また、大阪医科大学松本秀雄教授は、「日本人は何処から来たか…血液型遺伝子から解く」で、朝鮮民族は、相互移民や侵入などによって漢民族などの影響(混血)を受けているとし、実際、HLA遺伝子による調査で朝鮮民族は満州族や中国華北の漢民族に近いことが確認されています。



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